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2014/08/25

ラバウル慰安所「朝鮮人女は黄色い嬌声をあげていた」


最近、朝鮮人女性強制連行の主犯を帝国陸軍から帝国海軍にすりかえつつあるようです。

8月20日付の韓国ニュースサイトに転載された中国の記事では、トラック島やパラオからラバウルに進出してきた慰安所(遊廓)を『日本軍がラバウルに上陸したとき、大陸から相当数の慰安婦を引っ張ってきた』と書き、お決まりの日本軍の暴行も捏造していました。

元海軍中尉の手記によると、

朝鮮人女は夜ごと黄色い嬌声をあげていた

そうです。

【帝国海軍バラレ島基地と零戦二一型】
写真左にあるのはバラック建ての指揮所。右側にあるのはテント張りの兵舎。
Rabaul_zero21.jpg


ラバウルをはじめとする内南洋方面は、帝国海軍が最重要視した場所で、帝国陸軍は従という戦域でした。なので、戦力の大半は帝国海軍でした。

韓国、中国は朝日新聞の「強制連行」記事取り消しで「帝国陸軍による強制連行」が壊滅したので、今度は帝国海軍に強制連行されたことにしようとしているのかも知れません。

でも帝国海軍は「おしゃれ」「スマート」「気品」を重んじていたので、今までのような残虐きわまる強制連行捏造で日本人をダマそうとするのは難しいと思いますよ。

それに帝国海軍が敵国とみなしていたのはアメリカですから、朝鮮人女性、中国人女性を「強制連行」する意味がありません。

「神風特攻隊に輪姦された」などと言った日にはどうなるか、日本人として保障はできませんね。


日本軍生存者「慰安婦1人が一日300人相手」証言
2014年8月20日 

第2次世界大戦当時、日本軍に連行された慰安婦の一人が一日に3百人以上の日本軍を相手にしたという証言が日本軍生存者から出てきました。

国営人民日報インターネット版は、日本の作家の千田夏光の著作の中国語版の「従軍慰安婦」という本に日本軍生存者のこのような証言が含まれていると報道しました。

本に登場する西山幸吉氏は太平洋戦争当時、4千人余りの日本軍部隊員の中で生きて帰国したたった2名のうちの1人です。

彼が属した南海地帯は去る1942年1月末、パプアニューギニア領ニューブリテン島の州都であるラバウル市に上陸しました。

日本軍がラバウルに上陸したとき大陸にいた慰安婦も相当数引っ張ってきたと伝えました。

彼は「慰安婦がラバウルで軍人を相手にし始めた初日、兵士たちが並んだ列は3kmにもなった」として「3kmというものは3千人以上の兵士が列をつくったという意味」と話しました。

西山さんは「女はせいぜい10人余りに過ぎず、彼女たちは一日中軍人を相手にしなければならなかった」と明らかにしました。

西山は自身が属した部隊の大隊長の1人がラバウル市場の娘を性暴行した事実を打ち明け、彼女は結局夜中に首をくくって命を絶ったと証言しました。

作家は本で「慰安婦1人が一日に平均370~380人の兵士を相手にしたと言っていたが、どれくらいみじめなことか分からない」と指摘しました。

作家は本で慰安婦の中では中国女性が20万人余りで最も多く、上海に慰安所が一番最初に立てられた後最も長く運営されたと明らかにしました。

人民日報インターネット版がこの本の内容を詳しく紹介したのは日本の「過去の歴史逆行」に対抗する中国の対日攻勢の一環と思われます。

中国国民党保安局は先月から第2次大戦当時に日本が犯した戦争犯罪を暴露しており、引き続き去る15日から日本に対抗した中国の「偉大な勝利」の記録を毎日1編ずつ公開しています。

http://news.nate.com/view/20140820n12774?mid=n1006




周辺諸島からラバウルに進出してきた慰安婦たち



韓国、中国はどうしても『日本軍による朝鮮人・中国人女性強制連行』を事実化したいようです。でも日本軍が占領したラバウルにやって来た慰安婦たちは、「強制連行」ではなく、ラバウル周辺のトラック島、シンガポール、マニラ、パラオなどから日本軍を追って上陸して来た女性たちでした。

【ラバウルに上陸した慰安婦たち】
ドット印刷で見づらいですが、港に到着した慰安婦たち。和服を着ている女性が多く、中には日の丸を持っている女性もいるように見えます。三々五々という感じで「強制連行」とは思えません。
Rabaul_ianhu.jpg


【元海軍中尉の手記】

出典:1958(昭和33)年 日本文芸社 「現代読本」第三巻第五号所収 第二十六航空戦隊 零戦隊付 元海軍中尉 山崎隆 「炎の斗魂! 急降下爆撃隊還らず」
※上掲の「上陸する慰安婦」写真も同じ。



 前進基地ラバウル

 ラバウルは、異常な速度で変化した。占領の初期ごろ、この町には、英人経営の雑貨屋が一、二軒あったほか、右をむいても左をみても、ごちゃごちゃと、ニソバ椰子(やし)の葉で葺(ふ)いた土民の家がならび、その街路からひと足裏へ入れば、昼なおうすぐらい密林を背後にひかえている……と、その田舎町が、急激にふえる日本軍将兵の駐屯と歩調をあわせ、喫茶店が、ずらりと軒をならべるまでに発展したのだ。

 人口の急増といっても、それは殺風景な男ばかりの集団、軍隊の進出である。すぐにあたまへ浮かぶのは風紀だが、植物園と呼ぶあたりには、はやくも陸海軍特要員─慰安婦─たちも、トラック島、シンガポール、マニラ、パラオなどから進出し、大和亭、菊の家(きくのや)と、すぐに内地の色街を想いださせる店をひらき朝鮮の女もまじって、夜ごと黄いろい嬌声をあげていた。

【資料画像】
Rabaul_shougen03.jpg

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【マニラで営業していた菊の家】
一致www
Manila_kikunoya.jpg
【資料出典】・アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C14010080900:昭和18年1月15日 陸軍省 「『マニラ』防衛地域内軍人軍属外出取締規定 『マニラ』防衛司令部」
    


軍人を手玉にとるようなあばずれが、今は悲劇のヒロイン扱いなのですから笑っちゃいますね。




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