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2014/08/22

マスコミの「南京大虐殺」捏造が女性を戦地に送った


中国さまが国連で「従軍慰安婦」に対する日本の姿勢を非難しています。

しかし、本当の日本軍慰安婦たちは、中国をはじめとする連合国の「南京大虐殺」捏造報道が原因で戦地に送られて行きました。

南京陥落後、世界中のマスコミは中国側の発表をうのみにして、南京における日本軍の捕虜殺戮や婦女暴行を報道しました。この誤報が国際問題化したため、日本は兵を鎮めるために急きょ、公娼(娼妓)を集め、中国に送ったのです。


南京陥落は1937(昭和12)年12月7日でした。そして、中国で慰安所が設けられたのが翌年の2月ですから、時間的にも一致しています。


【「百人斬り競争」誤報記事】
昭和12年12月13日付。当時の大阪毎日新聞と東京日日新聞、鹿児島新聞、鹿児島朝日新聞、鹿児島毎日新聞が報道した。100nin00001.jpg


【支度金千円を払って集められた慰安婦たち】
上海に到着して性病検査を受診しに行くところ。前から二人目の女性はチマチョゴリを着ているように見える。 戦前日本女性は和装が主流なので、かかとを上げず、すり足で歩いた。
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【朝鮮婦人の外出着】
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「性奴隷の史実隠す」=中国委員、国連差別撤廃委で日本批判
2014年8月21日 時事ドットコム

 【ジュネーブ時事】国連の人種差別撤廃委員会の対日審査会合で20日、中国の黄永安委員が旧日本軍の従軍慰安婦問題を取り上げ、安倍晋三首相や閣僚らが「慰安婦を正当化している」と批判するとともに、事実に向き合わない姿勢は「旧日本軍による性奴隷の歴史を隠蔽(いんぺい)する試みだ」と断じた。

ソース元URL:http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2014082100075


「南京大虐殺」捏造と実際の「南京事件」


上海の兵站病院から南京に移動した麻生元軍医の記録によると、実際の「南京事件」とは、陥落後の南京で中国軍司令官が逃亡したため、日本軍に投降してきた約一万人の中国兵と日本軍の衝突だったのだそうです。

衝突の原因は二つありました。

一つは、一万人分の糧食が確保できなかったこと、

二つめは、軍参謀の『捕虜を始末せよ』という命令に従わなかった末端部隊が、捕虜を北方揚子江河岸に移動させて解放しようとしたところ、地形の不案内で目的地にたどり着けなかったこと、

です。

日本軍は中国軍捕虜を解放しようとしましたが、揚子江にたどり着けず、糧食の不足もあって、日本軍と中国兵の緊張が高まっていました。すると誰かがまるで蘆溝橋事件のように「日本人の嘘つき!」と叫んだのだそうです。それが引き金となって衝突に至った、、、というのが実際の南京事件だったそうです。

その時の状況は、中国兵は人数で日本軍に勝っているけれども武器を持たない。かたや日本軍は人数では負けているが武器を持っている。

日本軍と中国軍捕虜は、まさに喰うか喰われるかの状況だったのです。


この事件について、当時の関係者の話を聞いていた麻生元軍医は「処刑ではなく、まったくの偶発事件だった」と記し、また麻生元軍医ご自身が南京に居住した経験から「南京で世にいう三十万人の中国人が殺害されたとは考えるに苦しむ」と記しています。

連合国の誤報と朝日新聞の誤報の被害国日本


アメリカやイギリスも「従軍慰安婦」について日本批判を展開していますが、本当の慰安婦たちは連合国をはじめとするマスコミの「南京大虐殺」誤報が原因で戦地に送られて行きました。

そして現在、アメリカやイギリスは朝日新聞が捏造した架空の「従軍慰安婦」の人権について、日本を批判しています。

なぜ、こんなキチガイじみた世界になっているのかといえば、朝日新聞が世界に対して「自社の誤報」を報道していないからでしょう。

連合国にしろ、朝日新聞にしろ、共産主義者がやることは、世界を混乱させることだけです。

本記事の資料


麻生元軍医「日本軍の装備は悪く、糧食もなかった」


出典:1993(平成5)年 石風社 麻生徹男著 「上海より上海へ」  



南京第一信

 南京攻撃の主力は我が郷土部隊で、南の正面、中華門の戦闘に比山君は従軍していた。この頃までの日本軍の装備は悪く、この南京戦に参加したある師団の如きは、鉄帽すら支給されていない戦闘部隊があったくらいであり、まして第一線を駆け廻る従軍記者、カメラマンには兵服はおろか、鉄帽などあるはずはなかった。

(中略)

朝天院

 私が、この場所に這入(はい)ったのは南京落城後、既に八ヶ月、蒋介石軍はこの要塞を全く使用していなかったと思われた。南京攻防戦にて、南の中華門、光華門、西の中山門、更に玄武湖方面が主戦場で、残敵は、この挹江門より下関(シャカン)方面へ遁走したと云(い)われるので、この付近何らか狼藉の跡でもあるかと思ったが、その様子もなく、それかと云って日本軍が戦場掃蕩したはずもなく、全く秘められた場所であった。

【南京城内要図】
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(中略)

 私の宿舎はこのような環境の中、蒋政府鉄道部の高級住宅群の一角にあり、部隊長はじめ日赤救護班と、それぞれ一戸を構えて住んでいた。付近住民も極めて友交的で、日常の交際にも、これが敵国人であるのかと訝(いぶか)るくらいで、上海時代既に噂されていた日本兵の「南京暴行」の翳(かげ)りなど、何処(どこ)にも無いと思えた。

(中略)

 聞く所によると、その御来訪の目的は広田外相の特別な要請に基く、極めて重大な一件であるとのこと。

 それは南京陥落に際して発生したと云う、日本軍人の中国民衆に対して行った、所謂(いわゆる)、南京暴行事件に関し、当時現地の南京安全区国際委員会のルイス博士やマギー師との懇談であった。

このことは南京暴行事件の一つとして挙げられている投降中国兵の無差別大量殺戮事件とは別個の、中国良民婦女子に対する日本兵の暴行事件であり、これらの暴行は国際的衆人監視の中にて行われたるもの、これらの被害者は被害者としても、これを目撃した子供達への影響は誠に重大なものがある、と云うのがルイス博士やマギー師の意見であった。

当時アメリカ国旗のもと金陵大学は難民の保護収容所であったので、日本政府としても、安村牧師に日本YMCAの肩書を被せて、米国、引いては中国に開けた窓として、何かの償いの道を講ぜんとしたのである。

(中略)

 一方、もう一つの南京暴行事件、それは何だろう。

 それは南京落城の土壇場に際して逸(いち)早く遁走したる、唐生智司令官、後に残された統帥なき巨万の大軍は暴徒と化し、略奪放火を敢えてしつつ北方挹江門、下関の方面に逃れ、一部、紫金山、玄武湖方面城外の中国兵も陸続として投降して来た。

 ここで日本軍は建軍以来初めて、その良心の試される問題を抱え込まされてしまった。即ち我れに十倍する人数の捕虜を如何に監視、給与するかと言う切実さし迫った決断である。勿論(もちろん)大部分の中国兵は自ら武器を棄て、便衣と成り下関付近より四散したと云うが、一部はそのまま日本軍の掌握下に入ってしまった。その数凡(およ)そ一万、一方これに対して、この方面の日本軍兵力は僅か千余名に過ぎなかった。

 この時日本軍は急進撃の為、糧食の追送はなく、唯(ただ)「糧は敵に拠る」の日本軍戦場の鉄則を固執していた。まして我に十倍する頭数の捕虜に与える兵糧が、日本軍の手元にあろう筈(はず)がない。為に我軍当局は捕虜の処遇に困惑してしまった。

 軍参謀長、長大佐は捕虜は始末せよと云ったと云う。然(しか)し、このような軍命令、それが朝香宮殿下の統帥下にあっても、末端部隊に於ては承服し難きものがあったと、当時の関係者は言っていた。ともかくも北方揚子江河岸こそ、唯一の解放口のように思え、そこ迄(まで)移動せしめることにした。そこまで行けば、何とか成るだろうと、思ったのが末端部隊の将校達の偽りなき考え方であった。

 それから先は舟なり、何なり夜陰に乗じて遁走してくれとも、念じていたと云う。ところが地形の不案内、給与の問題も、うまく行かず、終(つい)に深夜に及んでも事態は何ら進展しなかった。かくて彼我(管理人注:ひが。相手と自分)の神経の緊張は、その極に達してしまった。この時、何処からともなく、「日本人の嘘つき!」、大声に叫んだ者が居た。

 後は、阿鼻叫喚の巷(ちまた)、日本軍の機関銃が火を吹く、人間の塊りと塊りの、ぶっつけ合い、翌朝無数の敵兵屍に交って十数名の日本兵屍も発見され、その中に抜刀している一人の日本軍将校の屍も、確認されている。実に喰うか喰われるかの極限であった。それは決して、処刑の跡ではなく、全くの偶発事件であったと言う。

 以上二つの事件が「南京暴行」である。世に云う通り三十万の中国人が、この時殺害されたとは、今日でも私は考えるに苦しむ

 然(しか)し、一般には、このように大量殺人が、考えられない程の人数に対して行われたと信じられている。そこには、それなりに、南京事件の意味がある。又(また)、当時従軍していた日本人の一人として反省したいことは、寧(むし)ろこの二つの暴行事件の内、前者の方にある。当時、得々として語られていた、前線帰りの兵の、この種の話。それは、その直後、私が軍命令にて参画せしめられた、日本軍独特の「軍用慰安所」の開設に連なるものでもある。


付録・麻生徹男「従軍慰安婦資料」をめぐって

 一九三七年十二月十三日の南京陥落の折の捕虜殺戮と婦女暴行という日本軍の行動が国際問題となった。写真(管理人注:上掲の写真)に写っているのはその対策として、日本国内の主に北九州地区で急遽支度金千円を払って集められた女性(朝鮮人八〇名、日本人二〇名)である。



日本軍新聞班「投降した中国兵は一万五千名」


出典:アジア歴史資料センター:レファレンスコード:A06031022400:昭和12年12月22日「週報 第62号」 陸軍省新聞班 首都南京陥落す



 十日莘県南方地区に進出した部隊は十一日には朝城(大名東南方約五十粁(キロ))附近に前進し更に十三日観城にあった約一団の敵を撃破した。

 かくて平漢線東方地帯の治安は漸次回復し、十二月初旬臨清附近にあった支那軍約七千名及(および)隆平(順徳東北方約六十粁)附近にあった約八千名の敗残部隊は我軍に帰順を申出でた。



歩兵第三十三連隊「水も弾薬も毛布もない」


出典:アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C11111198100:1928(昭和13)年 「南京附近戦闘詳報 歩兵第33連隊」



【原文】
⑶十二月十日乃至十三日に亘(わた)る我(わが)攻撃間天候極めて良好にして夜半に至る迄月明かり我が行動の為に便なり。然(しか)れ共(ども)夜間山頂西南風ありて寒冷肌を刺し、将校は露天に夜を徹し、又給水は全く欠乏し、各部隊は炊爨(管理人注:すいさん。飯をたく)の為、一部を下山せしめて遠く黄馬又は上五旗に於て飯盒炊爨を行い、水と共に之(これ)を山上に搬送す。臂力(管理人注:ひりょく。腕の力)を以て山上に運搬する弾薬の補給亦(また)多大の困難を感ぜり。

【意訳】
⑶12月10日から13日にわたる我が軍の攻撃の間、天候は極めて良好であり、夜中になるまで月明かりがあって、我らの行動のため便利であった。しかし、夜間の山頂は西南の風が吹いて、寒さが肌を刺し、将校は外で夜を徹し、また給水はまったく欠乏して、各部隊は飯ごうで飯をたくのに、一部の兵を下山させ、遠く黄馬又は上五旗まで行って飯をたき、水とともに山上へ搬送している。腕力で山上に弾薬を搬送するのは多大な困難を感じる。

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出典:アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C11111197900:1937(昭和12)年12月10日~昭和12年12月13日「其1 紫金山の戦闘」



1.天候気象
 南京城攻略前の天候は正に快晴にして皇軍の戦力発揮に恰適(こうてき)なりき。即ち射弾の観測容易なるのみならず暾(管理人注:とん。あさひ。日の出の太陽)光敵陣地を照して敵影明瞭なり。然(しか)れ共(ども)夜となれば谷風松林を吹き渡りて寒冷甚(はなはだ)しく露営火さえも用いざる。三晩の露営の寒さは将兵の骨に沁み渡れり

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女性を戦地に送った連合国の虚偽報道


出典:アジア歴史資料センターレファレンスコード:A03023964300:「AP南京日本兵の行動を誣ゆ」

※管理人注:誣=フ、ブ、しいる。無実の罪で人をおとしいれる。


AP南京特派員マクダニエル氏は南京陥落直後の情況を日誌の形で左の如く報じている

△十二月十四日
 入城した日本軍が全市に亙(わた)って掠奪を行うのを見た、「日本兵は安全地帯に避難していた住民に銃剣を擬して三千弗(ドル)をせしめたのを目撃した

△十二月十五日
 米国大使館の傭(雇)女と共に彼女の母親を探しに出かけた処(ところ)、母親は溝の中で無惨な死体となって発見された、午後余自身も武装解除を手伝った支那兵数名が屋外に引摺(ひきず)り出され銃殺に処せられた上溝の中に蹴(けり)こまれた、夜一般民及び武装解除された支那兵五百名以上は日本兵により安全地帯から何処ともなく連れ去られた、勿論(もちろん)一人も帰って来たものはなかった、支那住民は軒に日章旗を掲げ帽子に日の丸をつけていても続々逮捕され引張られて行く。





出典:アジア歴史資料センターレファレンスコード:A03023965000:「ニューヨーク、タイムス「日本軍の蛮行」を誣ふ」



内閣情報部一二・一八 情報第一四号 ニユーヨーク・タイムス「日本軍の蛮行」を誣ふ
同盟来電 不発表
ニユーヨーク十八日発

ニユーヨーク・タイムス紙南京特派員テイルマン・ダーデイン氏は十八日南京から上海に帰還したが、南京の市内に於ける日本兵の行動につき、左の如く報じている 「南京占領に当つて日本兵は残虐と蛮行の限りを尽した、日本兵は上官の面前で金銭と言はず、貴品と言はず、欲しいものは何でも掠奪して憚らない有様だ、多数支那人住民が第三国人に語る所によると、日本兵は支那人の既婚、未婚の婦人を誘拐、強姦していると言ふ話で、捕虜は勿論一人前の男はすべて容赦なく虐殺されていると言はれる」



パレスチナの死者が教えてくれたこと

イスラエルが近代兵器を使用して殺害したパレスチナの死者数は1ヶ月で2016名にのぼりました。

一方、日本軍は食糧、武器が欠乏していたにも関わらず日本刀や小銃といった武器で1.5~2ヶ月間に30万人を殺害した、とされています。日本軍は腕力だけで1.5ヶ月なら1日に6666人、2ヶ月なら1日に5000人殺害しなければならなかったことになります。

パレスチナの死者は、日本人に「南京大虐殺」は捏造であると教えてくれました。


ガザの死者、2000人超える パレスチナ発表
2014年8月18日 AFP BB NEWS

パレスチナ自治政府保健省は18日、1か月に及ぶイスラエル軍との衝突によるガザ地区(Gaza Strip)の死者が2000人を超えたと発表した。

 同省によると、ガザ地区ではこれまでに計2016人が死亡、1万196人が負傷している。負傷した後に亡くなる人も増えている。2016人の死者のうち、541人は子ども、250人は女性、95人は高齢男性だという。

ソース元URL:http://www.afpbb.com/articles/-/3023382



【写真出典】
1930(昭和5)年 南山吟社 今村鞆 著 「歴史民俗朝鮮漫談」
1910(明治43)年 統監府 編 「大日本帝国朝鮮写真帖 : 日韓併合紀念」
・1993(平成5)年 石風社 麻生徹男著 「上海より上海へ」


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