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2017/01/10

従軍慰安婦制度という捏造|慰安所(遊廓)の歴史


ときどき、堂々と「従軍慰安婦制度」と口にしている人を見かけますが、「従軍慰安婦制度」というのは捏造です。

日本に存在していたのは公娼制度だけです。

わが日本民族には風紀上よろしくないものを一画に集める習性があるので、鎌倉時代には遊女の取締を始め、豊臣秀吉の天下統一後には遊廓を設置しました。

なので慰安所には1937(昭和12)年、上海に初めて慰安所を設けた時点で約750年の歴史がありました。

軍の風紀と衛生を維持するには日本から妓楼と娼妓(公娼)を呼ぶだけでよかったのです。

朝鮮人や中国人を強制連行する必要など、まったくありませんでした。


慰安所(遊廓)の歴史年表


和暦・元号西暦遊廓の発達
天平年間729~748年売春の起源
嘉承2年

保安4年
(鳥羽天皇の御世)
1107年
1123年
白拍子(しらびょうし)、遊行
(ゆぎょう)、傀儡(かいらい)と
呼ばれる売春婦が出現する
保元
~平治
1156年
1159年
娼婦を養う妓楼(ぎろう)および
料理茶屋が出現、楼主を長者、
遊女を抱女と称した
鎌倉時代
1185年頃
1333年
鎌倉に「遊君別当」という官制が
設けられ遊女の取締を行う
この別当は北条、足利時代にも
存在した
足利の末世、遊女を一つの営業
と認め
「傾城(けいせい)局」を
置き遊女に課税する法が成立
した(傾城とは売春婦のこと)
戦国時代
15世紀末
16世紀末
戦乱により売春婦に関する史料が
少なく、実態が不明
天正18年
(豊臣秀吉が
天下統一)
1590年京都の萬里小路(のちの島原)に
初めて遊廓を新設し「遊女別当」
置いた
そののち大阪、奈良、駿河等にも
遊廓を見るようになった
これがわが国における遊廓の起源
とされている
慶長8年
(徳川家康が
江戸幕府開府)
1603年市内の所々に娼家が集まった場所
が出現、麹町八丁目、鎌倉海岸、
内柳町等
慶長17年1612年小田原の庄司甚左衛門という者が
江戸の散娼制度は風紀上有害で
あると主張し、元和3年3月認可を
得、同4年日本橋区和泉町に吉原
遊廓の一廓を新設、これが日本の
集娼制度の始まり
となった
寛永17年1640年吉原遊廓の繁盛により風紀が乱れ
たため、遊廓の夜間営業を禁止と
したが、その反動で市中に多数の
風呂屋を生じ、湯女(ゆな:風呂屋で
売春する女)が増加した
明暦3年1657年江戸に大火があり吉原遊廓が焼失、
同8月のちの新吉原と呼ばれる場所
に移転させ、娼妓に対して新たに
課税の法を講じた
元禄時代
1688年
1704年
全国に遊廓が35ヶ所、吉原の娼妓
2000名、島原の女郎800名との
記録あり
天保年間
1830年
1844年
新たに江戸入口の四宿に妓楼を
認め、はびこる私娼を取り締まろう
としたが徒労に終わる
慶応年間
1865年
1868年
英国公使バークス氏の唱導により、
横浜・神戸・長崎等の開港地で娼妓
の梅毒検査を実施するようになった
明治5年1872年10月2日娼妓・芸妓解放令発布
娼妓の梅毒検査が一時廃止される


「従軍慰安婦制度」などという造語は、いかにも日本軍が大東亜戦争中だけ特別に布いた制度のように思わせます。

従軍慰安婦を自称するばーさんらを擁護するサヨクの言い分を聞いていると、あたかも日本が朝鮮人女性や中国人女性を慰安婦にして虐待するために戦争を始めたかのような印象を受けます。

しかし日本が大東亜戦争開戦を決意した原因は、米英による経済封鎖や不当な高関税などで国の経済を死滅させられ、日本国民全員が餓死させられそうになったことです。

経済封鎖下「ないないづくし」で始めた戦争で、数十万人もの女性を強制連行する船や燃料や食糧が一体どこにあったというのでしょうか?

日本には約750年間もの歴史を持つ公娼制度がありました。

日本の娼妓たちは法で梅毒検査が義務づけられていたので、性病寄生虫伝染病に感染している率が高い、リスキーな朝鮮人女性や中国人女性を強制連行する必要などまったくなかったのです。


日本軍も「慰安所は事実上の貸座敷(妓楼)」と言っている


出典:アジア歴史資料センター:レファレンスコード:A05032040800 昭和13年2月18日 「支那渡航婦女の取扱に関する件(庁府県)」
(44コマ目)



軍慰安所(事実上の貸座敷)。
kashizasiki2.jpg




絵で見る遊女(慰安婦)の歴史

(  )内は管理人による注釈です。

鎌倉(1185頃~1333年)・室町(1336または1338~1573年)時代の娼婦


右図は武家時代の娼婦の代表的扮装で、下段左図の有名な江口の遊女など、立君や辻子君に比して高級の者である。両者共に胸に守を懸けて居る。立君の扮装被衣(きぬかずき:平安時代ごろから身分ある女性が外出時顔をかくすために、衣をかぶったこと。また、その衣)をかむりその上に笠を着けて居る。あい女の装も亦(また)同じ。七十一番職人尽歌合所載立君の詞書(ことばがき)に、「春は御覧ぜよけしからずや(春は要らんかね?)」とあり。これに対して男「能見まうさん清水まで入らせ玉へ(よく見てやるから清水まで入らせろ)」と。

公娼鎌倉室町時代の遊女1


天文(1532~1555年)頃の遊女・万治(1658~1660年)頃の吉原遊女


上図は土佐光茂筆京師の遊女を写せるもの。未(いま)だ裲襠(りょうとう:打掛け)を着用しない。当時既に廓口(くるわぐち:遊廓の入口)に柳を植えたらしい。下図は万治年中吉原時雨(しぐれ)の図である。当時雨の降る時遊女達は六尺(下男)に負われて揚屋(あげや:置屋〔芸妓または娼妓を抱えて置く家〕から芸妓または娼妓を呼んで遊ぶ所)に通ったものである。異本洞房語園に曰く「遊女は長き小袖にて足を包みもすそを長く垂して両の膝を六尺の手の上にのせて臀(尻)を張り衣紋かいつくろいて(えもんをつくろう:服装や姿勢の乱れをなおすこと)背なより長柄の傘さしかけさしたる体なかなか品よく見えし」と。

公娼2天文万治頃の遊女1


貞享(じょうきょう:1684~1687年)頃の遊女・承応(じょうおう:1682~1654年)万治頃の遊女・傾城太夫


上段右図は吉原京町一丁目三浦屋四郎左衛門かかえ名妓高尾の像と称せられる。下段は訓蒙図彙所載の図で貞享年中の風俗。傾城(けいせい)とは遊女、女郎のこと。

公娼3万治貞享頃の遊女1


遊女の種類:天神・鹿恋・半夜


天神は京師の遊女である。鹿恋は「十六匁(もんめ)四々の十六という九々よりかこいそめしかや萬天神様より一際鹿相におがまれ給う也御いしようも上﨟のめしおろしなどを焼返して召るるがありて御裾よごれ御脚布きわづき伽羅(きゃら:香木)とぼしくもとゆい黒く絞日にても御ちやがち也」と訓蒙図彙に見えたり。また夜半(原文ママ)については「半夜はしれたる鹿恋の切売也……江戸にて局または山茶九匁の類なるべし」とある。

公娼4天神ほか1


遊女の種類:端・北向・比丘尼


「端は局に立給う御方なり、端居の義、化契とばかりの御ちぎりにて小銭つかいの御結縁……」云々とあり。下等の売女である。「北向は北方の横町にあたりて鳩のこやのうちにすみて夏冬なしにすすばなをたらし無常迅速の観じたまう」比丘尼「歯は水晶をあざむき眉ほそく墨を引くろい帽子をおもわくらしくかづきて加賀笠にばらをの雪駄小歌をよすがにしてくわんというしおの目もとにわけをほのめかせ」云々。

公娼5端北向ほか1


遊女の種類:
湯女(ゆな)・想嫁(想与女・売女・夜発)・享保中の江戸の売色


吉原の遊女及び禿(かむろ)と野郎(かげま)。

禿(かむろ)は「かぶろ」の転。遊女が使う幼女。野郎(かげま)とは男色を売った少年で宴席に侍したもの。蔭子(かげこ)、陰舞(かげまい)、陰郎(かげろう)とも言った。

公娼6享保江戸湯女1


享保中の関西の遊女・安永(1772~1780年)中の江戸の遊女


天神(京都)、柏人(大阪)、妓女(大阪。

公娼8享保安永の遊女1


徳川末期の遊女


禿(かむろ)が長ずれば是(これ)を振袖新造とする。図の右方がそれである。十五、六才以下であって、それ以上は花魁(おいらん)或(あるい)は格子女郎か、又は袖を止めて番頭新造にもしたのである。また左方は所謂(いわゆる)江戸芸者の扮であるが、又非官許(お上に遊廓設置を許可されていない地)の地と遊女も同じ扮であったと云う。

新造とは花魁の少婢(こおんな:花魁が使う幼女)、または見習い、あるいは下働きのこと。

公娼9徳川末期の遊女1


萬延元年(1860年)岩亀楼竝(ならびに)異客之(の)図


幕末開港地横浜の妓楼岩亀楼の異人客用座敷。踊り舞台を背景にして源氏絵人物を画き豪華の有様を図してある(萬延元年十一月板)

公娼10岩亀楼異人客1


去年の記事ですが…「従軍慰安婦制度」と言う従軍慰安婦問題専門家



「従軍慰安婦制度が合法」という稲田発言は「虚偽」!「日本軍慰安婦制度は、国内法上も国際法上も明らかに犯罪」――国際人権法学者・戸塚悦朗氏インタビューを再配信! 2016.1.4
2016年1月4日 IWJ Independent Web Journal

 IWJ新人記者の城石エマです!大晦日の日にIWJの経理の責任者が体調不良で退職届を出され、年始早々から岩上さんは頭を抱えこんで対策に走り回っているところですが、さらにその翌日は、炎上騒ぎが重なりました。

 きっかけは、岩上さんのツイッターでした。2013年、当時、内閣府の特命担当大臣(規制改革担当)だった稲田朋美氏が、定例会見の場で、IWJの平山茂樹記者から日本軍による韓国従軍慰安婦について問いつめられ、「戦時中合法であったことは事実」と発言をしたことがあります。


 一昨日、2013年のIWJの記事がツイッター上で岩上さんにメンションされ、岩上さんがこの時の稲田氏の発言に対し、「戦時中合法だったというのは虚偽」とリプライしてツイートしたところ、タイムラインがあっという間に炎上しました。「何法の何条に抵触するのか」と迫ってくるものまでありました。

 さらに岩上さんの「勉強してから出直せ」というツイートにも、何一つ調べもせず、再度、再々度と噛みついてくる始末。「基本的なことを、なーんにも知らないんだなあ」と呆れていた岩上さんが、スタッフにすぐに指示を出したのが、従軍慰安婦問題に詳しい法律家として知られる、戸塚悦朗氏へのインタビューの再配信でした。

 今から2年半ほど前、2013年6月に、岩上さんが戸塚氏のお宅にお邪魔して行われたものです。「基本のき」の字も分からないネトウヨやその影響圏内にある人に対し、蒙を啓く(もうをひらく)ため、急遽、再配信いたします!(後略)



ほかにもこういうのがいましたね。


「慰安婦」来日、橋下氏を批判 広島と沖縄 
2013年5月19日 朝日新聞

【中崎太郎、多知川節子】旧日本軍の「慰安婦」だった韓国在住の吉元玉(キルウォノク)さん(84)と金福童(キムボットン)さん(87)が17、18の両日相次いで来日した。18日は広島県と沖縄県でそれぞれ支援団体が主催した集会に参加し、自らの体験を証言。集会後の記者会見では、戦時中の慰安婦制度について「必要」とされていたと発言した橋下徹・日本維新の会共同代表を批判した。 (後略)

【自称元従軍慰安婦】
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NHK会長発言を批判=大畠民主幹事長
2014年1年月26日 時事ドットコム

民主党の大畠章宏幹事長は26日、NHKの籾井勝人会長が就任記者会見で従軍慰安婦問題をめぐり「戦争しているどこの国にもあった」と述べたことについて、東京都内で記者団に「誠に不適切な発言と言わざる得ない」と批判した。(中略)

 大畠氏は、過去に安倍晋三首相が旧日本軍の従軍慰安婦制度の強制性を否定する見解を示したことを念頭に、「首相が(籾井氏を事実上)指名したことが裏打ちされたのではないか」とも指摘した。
 日本維新の会の松野頼久国会議員団幹事長も記者団に「(NHKは)公共放送といえども権力のチェックという役割を担っているので、そういう視点でやってもらいたい」と注文を付けた。

【大畠章宏氏】
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本記事の資料


出典:1926(大正15)年 警察協会 氏原佐蔵 「買笑婦及花柳病」 (第九章)日本の売笑婦 (其一)日本の公娼制度と其の真相



 一 歴史的沿革の概略

 山田弘倫博士の説によれば我国に於ける売淫の起源は聖武天皇天平年間(西暦七二九年-七四八年)であると云(い)われる、又「遊女記」等の記載によれば王朝時代に始まり、其の頃京都・江口・河尻・蟹島(摂津)、朝妻(近江)、室積(周防)等は有名であったとせられている。

人皇(じんこう:神代と神武天皇以後とを区別していう語天皇。にんのう)七十五代鳥羽天皇の御宇(ぎょう:天子の治め給う御世〔みよ〕)白拍子なるものがあり、其の水辺に遊行(ゆぎょう:ぶらぶら歩くこと)する遊女、山間の宿駅に在るを傀儡(かいらい)と称したと云う。

しかし此(こ)の時代の斯(かか)る婦女と今日の売笑婦とは必ずしも同一に取扱うべきものか否やは研究すべき余地がないでもあるまい。

 保元・平治時代に入りて武人の横行するに伴い、宿駅には娼婦を養う妓楼及び料理茶屋等一廓をなすに至り、楼主を長者、遊女を抱女と称したとのことである。

 鎌倉幕府の時代に及びては鎌倉に「遊君別当」なる官制が設けられ遊女の取締に任ぜしめねばならないほど娼婦が多数であったようである。此の別当は北条、足利時代にも尚(な)お存し、足利の末世に至りては遊女を一つの営業と認め「傾城(けいせい:遊女、女郎)局」を置き課税の法を講ずるに至ったとのことであるから、之(こ)れは今日の売笑婦と略(ほ)ぼ類似していたであろう。

しかし戦国時代に入り戦乱と共に之等(これら)の存在は史上に明かでなくなっているようである。

 豊臣秀吉が天下を平定するや京都の萬里小路即ち今日の島原に始めて遊廓を新設し又もや「遊女別当」を置いた、其の後幾(いくば)くもならずして大阪、奈良、駿河等にも遊廓を見るようになったが、之れ今日吾国(わがくに)に於ける遊廓の起源であるとせられている。

 徳川家康江戸に幕府を開きて後、市内所々に一廓をなして娼家の集まれる所があるに至り、麹町八丁目、鎌倉海岸、内柳町等即ち之(これ)であった。

慶長十七年小田原の人庄司甚左衛門なるもの江戸に於ける此の散娼制度(朝鮮のように売春婦が好きな場所で商売をする制度)の風紀上有害なるを主張し、元和三年三月認可を得、同四年十一月現在の日本橋区和泉町に吉原の遊廓の一廓を新設したが、之れは現代に於ける集娼制(日本のように風紀上有害なものを一ヶ所に集めた制度)遊廓の濫觴(らんしょう:ものの始まり)であった、

然(しか)るに太平の持続と共に吉原は非常に繁昌(はんじょう)し淫風漸く甚(はなはだ)しくなった為に、寛永十七年幕府は断然夜間の営業を禁止せるに、其の反動として市中に多数の風呂屋を生じ湯女(ゆな:風呂屋で客の背中を流しながら売春を行う女)の跋扈を見るに至り反って市内に淫風が拡(ひろ)まると云う現象を呈した。

 明暦三年江戸に大火があり吉原は悉(ことごと)く烏有(うゆう)に帰した(皆無になる。特に火災で何もなくなった時にいう)ので、同年八月現在の地に之(これ)を移転せしめ新吉原と称し、娼妓に対しては新(あらた)に課税の法を講ずることとなった。

 元禄時代には「洞房語園」によれば全国に遊廓は三十五箇所あったと言われるも、徳川の江戸に対し各大名には夫々(それぞれ)城下があり、江戸の風俗を移入したのであるから、妓楼や遊廓の数は全国に於ては到底斯る少数ではなかったことと思われる、又「遊芸太平記」によれば吉原の娼妓二千名、島原の女郎八百人有ったとのことである。

 天保年間に至り新吉原以外新たに江戸入口の四宿に妓楼を認め市内に蔓(はび)これる私娼を厳禁しようとしたが、之も徒労に終わったのであった。

 慶応年間の末葉に至り横浜が開港地となって後、同地に於て英国駐在軍隊の保健を計る為(た)め英国公使バークス氏の唱導に依り、英医ニュートン氏及び松山棟庵氏等により始めて娼妓の検黴(けんばい:梅毒検査)を行い、亜(つ)いで神戸・長崎等に於ても之を実施するに至り、斯かる中に愈(いよいよ)明治の維新に入り庶制悉く革(あらた)まったけれども女郎たる娼妓は遂に改まることなく、之等に対する検黴法は新たに行われたが、衆人の物議を買い明治五年一時廃止の運命に陥った。




【資料出典】
1928(昭和3)年 史誌出版社 道家斉一郎 「売春婦論考:売笑の沿革と現状」
1931(昭和6)-1933(昭和8)年 横浜市編 「横浜市史稿 風俗編」
1930(昭和5)年 日本遊覧社 「全国遊廓案内」


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