2017/10/21

日本軍の中国共産党粛清作戦|中共党大会によせて


中国共産党党大会が開催され、その報道で日本のマスコミは盛り上がっています。そんなにおめでたいことならば、と

日本軍は反共だった

という事実を在日中国人はじめ中国人民のみなさまにプレゼントしたいと思います。

ロシア革命以降、コミンテルンはアジアとヨーロッパで世界赤化工作を開始、世界中が赤化の嵐に襲われましたが、日本、ドイツ、イタリアをはじめとする枢軸国は共産主義の本質をいち早く見抜いて、赤化の嵐に反抗しました。

それが第二次世界大戦勃発の一因です。そしてわが日本は皇室を戴く国なので共産革命など断じて容認できないし、隣国に赤化大国が樹立されるのも困るので、中国で11回にもおよぶ中国共産党粛清作戦を実施しました。

このとき、中国人民が米英の宣伝である「抗日」ではなく、わが日本軍の「共産主義は悪思想だ」という宣伝の方を真剣に聞いていたならば、中国は現在のような地獄にはならなかったと思います。


1942(昭和17)年~1944(昭和19)年
日本軍による中国共産党粛清作戦一覧

これ以前から日本軍は中共掃討作戦を実施していましたが、南方戦線の戦況悪化から日本軍の後方をゲリラ戦で撹乱する中国共産党討伐に力を注ぐことに方針転換しました。

作 戦 名実施年月粛清した共産軍・国民党軍
第二次平北作戦1942(昭和17)年7月北京、張家口地区の中共軍
南部太行(たいこう)作戦1942(昭和17)年8月 山西省東部の中共軍
第二次晋中(しんちゅう)粛清作戦1942(昭和17)年9月山西省中部の中共軍
東平湖(とうへいこ)西方粛清作戦1942(昭和17)年10月黄河下流地域の中共軍
秋季粛清作戦1942(昭和17)年11月山西省南部の中共軍
蘇准(そわい)作戦1943(昭和18)年2月江蘇省北部の中共軍
江北(こうほく)作戦1943(昭和18)年3月湖北省南部の中共軍
十八春太行作戦1943(昭和18)年4月山西省の中共軍
河南省の蒋介石系第二十四集団軍
江南(こうなん)進攻作戦1943(昭和18)年6月洞庭湖(どうていこ)西方
の第六戦区軍(蒋介石系)
十八夏太行作戦1943(昭和18)年7月山西省西部の中共軍
湖南(こなん)進攻作戦1943(昭和18)年11月湖南省北部の第六戦区軍
(蒋介石系)


1941(昭和16)年 山東省方面粛清作戦の資料


中共粛清作戦山東省西方作戦1
第五章 昭和十六年に於ける山東省方面粛清作戦
 第一節 西方作戦

山西省中央部以北の山地内は共産軍の蟠踞(ばんきょ:広大な土地を領し勢力をふるうこと)する所をりしが前年八月以来の晋中(しんちゅう)作戦及晋察冀辺区粛清作戦に依り我軍に追ひつめられ山西省の同蒲鉄道西方の共産軍も晋中作戦に依り相当の打撃を受けたり。


【共産匪賊時代の毛沢東(左)と朱徳(右)】
共産匪賊とは共産主義に染まった匪賊(山賊)のこと。山東省は中国共産党のアジトで、日本軍は中国共産党を「山東省の山賊」と呼んでいた。
毛沢東と朱徳

【出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C13032239500:復員局 「第5章 昭和16年に於ける山東省方面粛正作戦」


日本軍が作成した反共伝単(ビラ)

われら日本人は100年前から、共産党は悪思想だと見抜いていました。

マルクスは「資本主義→社会主義→共産主義」という体制の変化は国家が成熟する段階であると説きました。この美しい理論を実際的に解釈すれば、米英資本主義が赤化目標国の資本や資源を強奪したあと、共産革命を起して今度は人民の私有財産まで強奪する、という意味になります。

拒赤化誘惑
nihongun_dentan.jpg

共産党既是不合理。
剿滅共産党2

共産党圧迫民衆
剿滅共産党4

民衆団結徹底剿滅
剿滅共産党5

上海株暴落。次はビットコイン。
共産党_上海株暴落1

1927(昭和2)年5月 中国共産党員はわずか994名だった

このくらいの数ならば中国共産党撲滅は可能だったでしょう。その一年後、中国共産党員は57,967名まで増え、国共内戦後に中共政権が樹立され、恐怖政治で人民が弾圧されている間に共産党員は増殖し、今回のNHKの報道によると現在の中国共産党員数は8900万人だそうです。ここまで増えたら、もう打つ手なしですね。


出典:1929(昭和4)年 イスクラ閣 コミンテルン編 「支那共産党の最近の活動情勢」 三、一九二五-二八年の革命に於ける支那共産党

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。



 第五回大会(1927年5月)前に支那共産党は九百九十四名の小さなグループから発生したのであるが──(以下は一九二五年の第四回大会時代に於ける党員数であった)五万七千九百六十七名に発達した。党はその勢力を二百八十万の組織労働者の上に拡張した。党の指導下にあって活動する農民団体の会員数は同じ時期に二十万(主として広東の)から九百七十二万に増大した。共産主義青年同盟の会員状態も二千三百六十五名から三万五千名に増大した。




中国共産党とは 国の方向性決める最高意思決定機関
2017年10月21日 NHK NEWS WEB

今回は10月18日〜24日

今回の党大会は、中国共産党が結成された1921年に上海で開催された第1回大会から数えて19回目で、10月18日から北京の人民大会堂で開かれます。

大会には8900万人余りの党員の中から、全国合わせて40の地域や組織から選挙で選ばれた2300人が代表として出席します。



米英が中国人煽動に利用した「抗日」

アメリカ、イギリスは、日本を大陸から追放する手段として、根深い差別思想である中華思想を利用しました。アメリカ、イギリスの目的は中国人民を「日本の侵略」から守ることではなかったのです。

アメリカ、イギリスが中国人の「抗日」意識を煽動した目的は、大陸における自国の権益を守るため、日本を大陸から追放して満洲を強奪するため、自らの手を汚さずに有色人種同士に殺し合いをさせて、さらにガラクタ同様の武器を中国に売って儲けるためでした。


出典:アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C13071345300:陸軍省 「第2篇 事変の原因」

※管理人注:( )内は管理人による注釈です。


 第二篇 事変の原因
  第一章 遠因

 支那政府及民衆ハ帝国ガ東亜永遠ノ安定及帝国ノ自存自栄ノ為十万ノ生霊ヲ失ヒ十数億ノ国資ヲ費シテ露国(ロシア)ノ野望ヲ撃砕シタル結果満洲及支那ニ於テ獲(エ)タル帝国至当ノ権益を蹂躙奪回スベク列国特ニ米英ノ指嗾(原文ママ:しそう:そそのかすこと)煽動ノ下ニ久シキニ亙(ワタ)リ排日、排日貨ヲ行ヒ其ノ勢(イキオイ)日ト共ニ強烈トナレリ



日本は中国を侵略したのではありません。日本が「侵略」したのは西洋列国の権益です。

蒋介石もハッキリと「日本軍が列国の権益を蹂躙する」と言っています。中国人は西洋人の権益を守るために血を流して日本と戦って、そのうえ中国共産党という売国奴に国や私有財産、自由まで奪われたのです。


出典:1974(昭和49)年 東洋文化社 社会問題資料研究会 「思想情勢視察報告集(其の五)」所収 昭和十四年 司法省刑事局 「中国共産党最近の動静に関する資料」

※管理人注:〔 〕内は管理人による注釈です。


 国際反侵略大会中国分会

 今日全世界均〔ひと〕しく知れるが如く日本軍閥の野心は全中国を滅亡せしむるにあり。日本の一切の虚言は(所謂反共も其の内にある)総〔すべ〕て五千年の歴史と四億五千万人口を有する独立の和平を愛好せる民族を殷滅せんとする口実なり。

而〔そ〕して全世界又日本の領土野心は決して中国に限らざるを承知せり。日寇の所謂〔いわゆる〕中立国権利を尊重するの虚言は、全世界の識者を嘲弄せるに過ぎず、今日日寇の占領せる中国地域内に於て一切の列国権益が蹂躙せらるるのみならず、非戦闘区域内の中立国の大使、牧師、商船、軍艦、教会、文化慈善機関も又屠殺爆撃せられたり。



西洋列国の傀儡である中国共産党と国民党が叫んだスローガン
「民族解放」「民生幸福」「民権自由」「土地革命」「抗日」にだまされ地獄へと突き進む中国人民

「抗日」意識に燃え、誇らしげにソビエト式赤色挙手(サリュート)をし、青天白日旗を掲げて行進する中国人民。現在中国の地獄は人民自らが招いたのです。

中共粛清作戦写真週報21号1

ソビエト式の赤色挙手(サリュート)をする中国の子供たち。

赤色挙手1

毛沢東と蒋介石に食糧を奪われ、土地を奪われ、戦場に狩りだされる中国農民。

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こちらは日本軍が組織した中国人による防共自衛団。中共とはちがい衣服も武器も食も与えました。これらの人々は中共粛清作戦で治安が回復した地区に帰順した中国人たちです。

中共粛清作戦自衛団

1940(昭和15)年3月、南京に還都した中国新政府の面々。蒋介石が中国共産党の仲介でソ連と「ソ支不可侵条約(蒋介石が日本と戦うことを止めたらソ連が中国に侵攻するという条約)を締結したため、支那事変が泥沼化、支那事変を早期に終結させたかった日本の支援で樹立した親日中国人による新政府。南京大虐殺が事実なら、こういうことはありえませんね。

中共粛清作戦南京遷都

われら日本人は命がけで共産党の侵略と戦った

もし日本人の民度が「個人の利益」にしか興味がない中国人や朝鮮人と同じだったなら、東南アジアまでもがソ連領になっていたでしょう。ソ連やアメリカによるアジア赤化を断念させたのは日本であり、ヨーロッパ赤化を頓挫させたのはナチスドイツとイタリアなのです。

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日本が共産党の侵略と戦った証拠は特攻隊の隊名です。写真は硫黄島へ向け出撃する御盾隊ですが、御盾(みたて)とは「天皇陛下の醜(しこ)の御盾となる」という意味です。醜とは自分をへりくだっていう語です。御盾のほかにも「皇」や「神」、楠木正成につながる「菊水」という語が特攻隊名に多いのは、皇室を共産党から護るために戦ったからです。

第二御盾隊出撃_500

ご先祖さまたちが命をかけて共産党と戦ってくれたおかげで、いまの日本があり、子孫であるわれらは何不自由なく、のびのびと暮らすことができています。

この幸せを噛みしめるとき、ご先祖さまたちへの感謝の気持ちで胸がいっぱいになります。そして少しでもご先祖さまたちに報いることができるよう、この日本をちゃんとした形で次の世代に譲らねば、と思うのです。

明日は衆議院選挙の投票日です。マスコミの宣伝にダマされず、投票に行きましょう。この日本を選挙のない国にしないために。


中国共産党の足下にひれふすNHK どこの国の放送局じゃい?


NHKライブブログ 中国共産党大会

2017年10月20日 1時04分

高級スポーツカー

中国では、今やこうした高級車を見ることも珍しいことではありません。助手席に女性が乗り込むと、爆音をとどろかせて深夜の北京へ消えていきました。



2017年10月19日 10時00分 

“習近平新時代中国特色社会主義思想”

党大会2日目は各省代表団の分科会。「習近平総書記による新時代の中国の特色ある社会主義」と、何度も何度も口にしていました。



本記事の資料


出典:1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録大東亜戦史 大陸篇」所収 朝日新聞社外報部 大久保 泰 「大陸作戦の全貌」

※管理人注:〔  〕内は管理人による注釈です。


 重慶作戦の中止と粛清作戦の展開

 大本営は昭和十七年の秋頃から密かに重慶作戦を企図した。これは「第五号作戦」と呼称された。シナ派遣軍総司令部もこの作戦に積極的であった。


中共粛清作戦対重慶作戦1【出典】アジア歴史資料センター:レファレンスコード:C13071036100:1942(昭和17)年1月 陸軍省 「2.対重慶作戦ニ就テ」

 
 しかし十七年の後半からガダルカナル島に米軍が大挙進攻し、米軍の本格的反攻作戦が開始されて、ニューギニア、ガダルカナル戦線が次第に重大化して来た。またビルマ〔現ミャンマー〕に於いても英軍、中国軍の反攻態勢が強化され、日本軍は全面的に攻勢から守勢に転じたのである。

 このような状勢から日本軍の主作戦場は南太平洋諸島、ビルマ、フィリピンの各戦線に移って、中国戦線は「支作戦場」と化した。

 このため、重慶作戦は十七年末になって中止されるに至った。

 ところで、中国戦線に於は蒋介石直系軍の反攻作戦はほとんどみられなかったが、在華米空軍が着々増強され、地上に於いては中共軍が日本軍占領地区に深く入り込んで積極的なゲリラ作戦を展開し、その支配地区(解放区)を次第に拡大していた。

 このような戦略情勢にあったので、十七年五月の「浙贛(もっかん)作戦」から十九年四月の「第一号作戦」までの二年間、中国戦線は主として敵空軍基地爆撃戦と日本軍の背後を脅かす中共軍に対する粛清作戦に終始した。

 航空戦の激化は、たとえば十八年四月から九月まで在華第五空軍が敵基地群に対して行った主なる攻撃回数を見ると四月十七回、五月十四回、六月四回、七月六回、八月九回、九月十四回となっているのを見ても、明らかである。

 またこの間の地上作戦の主なるものを拾って見ると次の如くなっている。(カッコ内は作戦開始年月と作戦対象の敵軍)

 第二次平北〔へいほく〕作戦(十七年七月、北京、張家口地区の中共軍)、南部太行〔たいこう〕作戦(同年八月、山西省東部の中共軍)、第二次晋中〔しんちゅう〕粛清作戦(同九月、山西省中部の中共軍)、東平湖〔とうへいこ〕西方粛清作戦(同十月黄河下流地域の中共軍)、秋季〔しゅうき〕粛清作戦(同十一月、山西省南部の中共軍)、蘇准〔そわい〕作戦(十八年二月、江蘇省北部の中共軍)、江北〔こうほく〕作戦(同三月、湖北省南部の中共軍)、十八春太行作戦(同四月、山西省の中共軍と河南省の蒋介石系第二十四集団軍)、江南〔こうなん〕進攻作戦(同六月、洞庭湖〔どうていこ〕西方の第六戦区軍)〔管理人注:戦区軍は蒋介石系の軍〕、十八夏太行作戦(同七月、山西省西部の中共軍)、湖南〔こなん〕進攻作戦(同十一月、湖南省北部の第六戦区軍)。

 このように、十七年五月から十九年四月までの二年間に航空戦に於いては敵空軍基地の爆撃、地上戦に於いては占領地区内に入り中共軍に対する粛清作戦を展開したのであるが、結果はどうであったか。

 在華米空軍はシェンノート少将の率いる義勇軍であったが、十八年頃から正式に第十四航空隊が前進して来て戦力を増強、中国空軍も米国の援助で次第に力を増して在華敵空軍の戦力は十八年末に六百機、十九年春には約一千機となった。

 これに対しわが方は南太平洋諸島の作戦が次第に悪化したため、航空兵力の増強は望むべくもなかった。このため彼我〔ひが:彼と我。相手と自分〕の航空戦力の差は十八年秋頃から逆転し、我が方の劣勢は月日と共に大きく差を開いて行ったのである。

 また地上戦に於いては中共軍のゲリラ戦が激化し、中共支配の解放地区が拡大して日本軍は次第に「点と線」の確保となり、中共軍は「点と線」とをとりかこむ「面」を支配する態勢に移行したのであった。


【陸軍省作成:支那治安回復状況要図(昭和13年10月末日に於ける)】
赤い部分が中共の支配下にある解放区、青い部分が日本軍による治安回復地域。
中共粛清作戦治安回復状況2



【写真出典】
アジア歴史資料センター:レファレンスコード:A06031061600:内閣情報部 「写真週報21号」
・1953(昭和28)年 富士書苑 「秘録大東亜戦史 大陸篇」
・1953(昭和28)年 筑摩書房 エドガー・スノウ著/宇佐美誠次郎 「中国の赤い星」
・1968(昭和43)年 朝雲新聞社 防衛庁防衛研修所戦史室 「戦史叢書 北支の治安戦〈1〉」

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